昨日夕方、私はチェンマイ郊外Samoengの山へ行き、やっと!その姿を捉えることができた!そう、紫金山・アトラス彗星だ。肉眼でもうっすらと確認!厚い雲が多い夕方で、これは無理かもと思いつつも、暗い山の中で一人でいる怖さに耐え、蚊に刺されまくりながら、トイレを我慢して根性で待った甲斐があったというものだ。太古の時を超えて、静かにそして壮大に宇宙を旅するその姿は、まるで永遠の象徴のようじゃない?感動して鳥肌だよ!そしてその微かな光を見つめながら、次にこの彗星と再会する時、私はまたこの世界にいるのだろうかと考えてしまった。それとも、もっと違う形でこの彗星を見上げているのだろうか?
彗星は私たちの想像を遥かに超える長い旅を続けていて、数千年、あるいは数万年という時をかけて宇宙の深淵を通り過ぎる。その姿は一瞬の光として地球の空に現れるけど、その旅は人間の短い寿命とは比べものにならない長さだ。私たち人間の人生はその流れの中で一瞬の煌めきに過ぎない。でも、そこにこそ人間の本質的な問い「永遠とは何か」が生まれるのではないかと。
私は「永遠」という言葉を考えるとき、三次元の狭い思考の中で、常に矛盾を感じる。人間がこの世界で誕生してから死ぬまで経験する時間は限られていて、始まりがあり終わりがある。それにもかかわらず、私たちは「永遠」を求めたり、思索したりする。限られた時間の中で、なぜ私たちは無限のものに惹かれるのか。彗星をキャッチしたその瞬間、私はその答えに少しだけ触れられたような気がする。
彗星は悠久の旅路を続けているけど、その姿を見上げる私もまた、ある種の「旅」をしているんだよね。それは肉体の終わりを超えた存在の旅であり、再びこの世に生まれ変わるかどうかにかかわらず、何らかの形で宇宙の一部として存在し続ける旅だ。そう思うと、彗星と私は同じ時間の流れ、あるいはそれ以上の悠久を共有しているのかもしれない。私たちの肉体は有限だが、私たちの魂や意識、そしてそれが生み出す思い出や感情は、時空を超えて残り続ける。
次に紫金山・アトラス彗星が地球に戻ってくる時、私はもうここにはいないけど、その瞬間に、宇宙のどこかで何かが生まれ、こうして同じようにその彗星を見上げ、永遠について思いを馳せるかもしれない。そう考えると、私たちの存在は消えてしまうものではなく、ある種の形で宇宙と共に永遠に続くんだろうなって感じるんだよね。
永遠とは、目に見える形や明確な答えを持たないけど、彗星の光を見つめながら、その永遠の一端に触れることができる。永遠は、時間の無限の広がりだけではなく、私たちが何かに心を動かされ、感動し、そしてそれを未来へとつなげていくことにもあるのかもしれないね。
皆さんは、星を見上げるときに何を感じる?







