かつて9年もの月日を過ごした市川の街。子どもたちの手を引き、何度も揺られたあのバスの路線沿いに、その動物園はある。思い出が染み付いた「市川市動植物園」に、私はある小さなお猿さんに会うために足を運んでいた。
その日は午後まであいにくの悪天候だった。雨雪はやんだものの、冷たい風が吹き付ける閉園間際、入場にも行列と聞いていたのだが、人影もまばらな市川動植物園。しかし猿山だけが人混みで、最初は三列目からのスタート。私はカメラを高く掲げていた。人の頭や柵を避けながら、重い望遠レンズを震わせ、当てずっぽうにシャッターを切る。画面の中はブレと残像ばかり。そんなもどかしい時間ではあったものの、私もパンチくんに会いたいという熱気の一部でワクワクしていた。
ファインダー越しに捉えたパンチくんは、コンクリートの隅で、お気に入りのぬいぐるみの傍らに「ちんまり」と座っていた。 猿山は人間社会の縮図だ。序列、距離感、そして毛づくろいという名の外交、そして……その厳しい世界に、パンチくんは今まさに一歩ずつ足を踏み入れている。
そこで目にしたのは、見事なレジリエンス1の光景だった。
パンチくんが小さな木の枝を大事そうに持って、大きな大猿の真横に腰を下ろした時のこと。大猿はパンチくんの存在に気づくと、その枝をサクッと取り上げ、中身を確認するやいなや無造作に放り捨ててしまった。
一瞬の静寂。けれど、パンチくんは全く動じなかった。
慌ててその枝を拾いに行くと、あろうことか、またしても大猿の真横にピタリと寄り添って座り直したのだ。そして、取り返した枝を何事もなかったかのように黙々と観察し、遊び始める。 そんな屈託のなさに、大猿の方が拍子抜けしてしまったのかもしれない。大猿は結局、プイとどこかへ歩き出し、岩の影へと消えてしまった。パンチくんはそれを見て、また「待ってよ!」と言わんばかりにスタスタとその背中を追っていく。
(その瞬間を捉えた以下の動画の画面が揺れているのは、取り上げられた瞬間に私が笑ってしまったからw)
そんなパンチくんの変化に、私は胸が熱くなった。
今まで見てきた動画の記憶がよみがえる。以前の彼は、大きなサルにどつかれると、一目散にお母さん代わりのオランウータンのぬいぐるみに駆け寄っていた。そこが唯一の安全地帯だったからだ。けれど、今の彼は違う。別の場面でも、別の猿にどつかれても、もうぬいぐるみに泣きつくことはなく、ひとりでその場を離れ、淡々と別の行動に移っていた。
ぬいぐるみは、今も彼のすぐそばにある。けれど、それはもう逃げ込む場所ではなく、そこにあるのが当たり前の日常に変わったのではないか。理不尽を受け流し、誰に頼るでもなく、ただ次の瞬間を生きる。その小さな肩には、自立という名のしなやかさが備わっていた。
「閉園時間、過ぎてまーす!」 職員さんののんびりした声が響く頃(アナウンスもないローカルな動物園w)、あんなに厚かった人垣は消え、私たちの後ろにはもう誰もいなくなっていた。そのちょっと前に妹と交代しながら粘り、ようやく辿り着いた最前列。それは、悪天候と閉園間際という条件が重なって生まれた、時間ギリギリの端っこの特等席だった。
かつて幼かった我が子を連れて歩いたこの道で、私はパンチくんに教わった。
レジリエンスとは、強く跳ね返すことだけではない。「まかれても、どつかれても、また次へ行く」という、しなやかな諦めの良さと、飽くなき好奇心の繰り返しなのだ。
閉園の声に促され、トイレも我慢して門へと急ぐ帰り道。
心の中に残ったのは、あの岩の影に消えた大猿と、それを追いかけた可愛くも逞しい背中。
パンチくん、君のその、拾い上げてまた座り直す力を、私は少しだけ見習いたいと思っている。




音楽:Since the Last Goodbye ・The Alan Parsons Project
アラン・パーソンズ・プロジェクトの『Since the Last Goodbye』。
最後に「さよなら」を告げてから、何かが変わっていく――。
ぬいぐるみへの依存を卒業し、1匹のサルとして歩み始めたパンチくんの小さな背中に、この曲の静かな決意と孤独、そして再生の響きが重なります。
そして九年前、子供の手を引いて歩いたあの日々への惜別と、今日またこの場所で出会った新しい命への祝福。そんな過去と現在が交差する静かな閉園間際の空気感を、この曲に託しました。
- レジリエンス(resilience): 困難や逆境に直面した際、それを受け止め、適応しながら精神的な回復を遂げる力のこと。単なる「強靭さ」だけでなく、竹のような「しなやかさ」を含む概念として注目されている。 ↩︎


