千年前の音が、北タイの空気の中に
先日、チェンマイで雅楽を聴いた。
まさかチェンマイで雅楽を聴くことになるとは、ちょっと思っていなかった。
篳篥、龍笛、笙。
この三つの音がそろったとき、なんというか、地上の人の声と、天と地を行き来する龍と、上から差してくる光が、いっぺんに立ち上がってくるようだった。
千年前につくられた小さな宇宙が、そのまま北タイの空気の中で鳴っている感じがした。
でも、いちばん心をつかまれたのは笙だった。
奏者が息を吸っても、吐いても、音が途切れない。
和音というより、音の塊がそのまま空間に浮かんでいるようで、旋律を追おうとする私の耳が、途中で「あれ、どこへ行けばいいんだろう」と迷子になる。
追いかける先がない。
ただ、そこにある。
それを聴いていたら、突然、半年前の夜のことを思い出した。
ウィエンヘーンの、輪の外
今年の初め、リス族の村でダムファに立ち会った。
新年に先祖の霊を迎える夜だ。
三弦のスーブーが跳ねるようなリズムを刻むなか、輪の中にいた男性が「フル」という竹の楽器を吹き鳴らしていた。
笙によく似た形をした素朴な楽器なのに、なぜか荘厳だった。
単純なドローンの上を、柔らかな和音がふわふわと漂っている。
私はあの音に、すっかり心を奪われてしまった。
あれも笙と同じ、束ねた竹の管に小さなリードを仕込んだ「口風琴(マウスオルガン)」だったのだろう。
宮廷の雅楽と、タイ山岳民族の祝祭の夜。
時間も場所も遠く隔てられた二つの音が、竹と人の息づかいという同じ根っこで結びついていた。
そう気づいた瞬間、二つの世界のあいだにあった境界線が、ふっと溶けていくような面白さを覚える。
そして私は、あの夜、お祭りの踊りの輪の中に入らなかった。
村のおじいさんに「あんたも踊ってきなさい」と何度も背中をどつかれたのだけれど、結局、ためらったまま外から眺めていた。
一緒に行った友人は嬉しそうに輪の中を回っていた。
私はその外にいた。
カリフォルニアの風を裂いていた音
笙って、究極のドローンなんじゃないか。
そう思ったら、また別の音が記憶から出てきた。
次男が吹いていたハイランドパイプ。
革の袋に空気を溜めて、三本のドローン管が、ずっと重い倍音を吐き続ける。
カリフォルニアの海風の中で、ものすごい音量だった。
彼がアメリカの独立記念日パレードをバグパイプで先導したときのことだ。
すぐ後ろを歩いていたディキシージャズバンドから、その凄まじい音圧に苦情が出て、彼らとの間には不自然なほど大きな空白ができてしまった。
野外の喧騒さえも圧倒する、ドローンの強烈な存在感を思い知らされた瞬間だ。
天から差してくる光みたいな笙と、大気をまるごと震わせて空間を埋め尽くすバグパイプ。
東と西。
こんなに離れた場所で生まれた楽器なのに、どちらにも、始まりも終わりもない音がある。
途切れない音。
それが妙に気になった。
家では、いつも誰かが鳴らしていた
そうなると、もう芋づる式だった。
インドに長年住んでいた義父はハーモニウムが好きだった。
手でふいごを押しながら、穏やかなインドの音を部屋いっぱいに流していた。
あの音がしている時間は、家の空気まで少し澄んでいたような気がする。
その部屋にはいつも夫もいた。
長男はディジュリドゥに夢中になった。
一本の木の管から這い出してくる、大地の底鳴りのような低い響き。
途切れさせずに鳴らし続けるため、循環呼吸を覚えるのにずいぶん苦労していたっけ。
インド、オーストラリア、スコットランド。
風土も歴史もまったく違う音が、なぜかひとつの家に集まっていた。
誰かが仕向けたわけじゃない。
それぞれが勝手に惹かれて、勝手に吹き始めただけだ。
私はといえば、ずっと聴く側だった。
リス族の輪の外に立っていたのと、たぶん同じような場所に。
息継ぎをしない
こうやって並べてみると、ちょっとおかしなことに気づく。
笙は、吸っても吐いても鳴る。
バグパイプは、袋に空気を溜めておく。
ディジュリドゥは循環呼吸、鼻から息を吸いながら、口から吐き続ける。
ハーモニウムに至っては、肺そのものを手のふいごに外注している。
みんな、どうにかして「息をしているのに音を途切れさせない」方法を考えている。
考えてみれば、人は息をしないと生きられない。
でも、息をすれば音は途切れる。
この身も蓋もない矛盾を、世界中の人が、それぞれの場所で、それぞれの方法で解いてきたのだ。
竹を束ねたり、革の袋を抱えたり、呼吸の仕方を変えたり。
そう考えると、ドローンの楽器って、なんだか健気だ。
限りのある身体から、途切れない音を引っぱり出そうとしている。
溶けていくもの
旋律は、時間の中を進んでいく。
上がったり下がったり、期待させたり、裏切ったり。
始まりがあって、途中があって、どこかへ着地する。
でも、ドローンにはそれがない。
始まりも終わりもなく、ただ「いま」が鳴り続けている。
音の輪郭が空間に溶けていくと、こちらの輪郭まで少しずつ緩んでいく。
聴いているのがチェンマイの笙なのか、山の村のフルなのか、義父の部屋のハーモニウムなのか、途中からわからなくなる。
東と西も、昔といまも、自分と世界も。
そういえば、祭りのあの夜。
輪の中では、踊る人たちが地面を踏み鳴らしていた。
その振動が足の裏から伝わってきた。
私は輪の外にいたのに、それはちゃんと届いていた。
入らなくても、包まれてしまう。
ドローンって、そういうものなのかもしれない。
光の層の上で
以前、自分の孤独について書いたことがある。
若い日の孤独が旋律なら、いまの孤独はドローンのような基音だ、と。
夫を見送って、子どもたちがそれぞれの人生へ出ていったあと、底のほうで低く鳴り続けているもの。
けれど笙を聴きながら、少し違うかもしれないと思った。
影は、光がなければ生まれない。
あの孤独が影だったのなら、その下にはずっと光があったことになる。
私はどうやら、光のほうを孤独と呼び間違えていたらしい。
義父がふいごを押し、長男が循環呼吸を覚え、次男が袋に空気を溜めていた。
もっと言えば、名前も知らない誰かが竹を束ねてきた。私が自分の底で聴いていたあの音は、そういう無数の息が積み重なったものだったのかもしれない。
チェンマイの空の下で、笙の余韻を聴きながら、そんなことを考えていた。
遠い異国の響きと、家族の記憶が、少しずつ輪郭を失って重なっていく。
そしてまた、私は輪の外で聴いていた。
でも、それを寂しいとは思わなかった。
そんなことは、たぶん、これまで一度もなかった。




