川を渡ったあとも、私たちはよく「何か」を抱えたまま歩いてしまう。
それは出来事そのものというより、あのときの言葉や表情に貼りついた判断や解釈だったりする。
禅の小話「二人の僧侶」は、そのことを驚くほどシンプルに思い出させてくれる。
瞑想のレクチャーで、よく登場する禅の小話がある。
二人の僧侶が旅をしていた。
あるとき、急流の川のほとりに辿り着く。
ちょうど川を渡ろうとしたとき、若く美しい女性が立ち尽くしているのが目に入った。
女性は僧侶たちに声をかけた。
向こう岸へ行きたいのですが……どうか助けていただけませんか?
女性に触れないという誓いを立てている僧侶にとって、これは難しいお願いだ。
助けたい。でも触れてはいけない――。
すると年配の僧侶が、何も言わずに女性をひょいと抱き上げ、そのまま川へ入った。
向こう岸へ着くと女性を静かに降ろし、何事もなかったように歩き出した。
若い僧侶は信じられなかった。
追いついたものの、どう声をかけていいかもわからず、黙ったまま歩き続ける。
何時間も経ち、胸の内が渦を巻いたまま歩いていた若い僧侶は、ついに堪えきれず訴えた。
僧侶たるもの、女性に触れてはならないのに、肩に抱いて運ぶとは一体何事ですか。
あなたは神聖な誓いを破ったのですよ。
年配の僧侶は若い僧侶を見て、こう答えた。
兄弟よ。私は川を渡って、彼女を岸に降ろした。
お前は、なぜまだ彼女を抱いているのだ?
シンプルな話だけれど、「今を生きる」ということについての大事なメッセージが詰まっていると思う。
ここで焦点になるのは、「誓いを守れたか/破ったか」という善悪の裁定そのものではない。
年配の僧侶は、目の前の状況に必要なことをして、終えたらそれを終わらせた。
一方で若い僧侶が抱え続けたのは、女性そのものではなく、出来事への解釈と判断――つまり、「許せない」「おかしい」「正しくない」という心の荷物だった。
私たちも同じことをやってしまう。
過去に起きた出来事そのものよりも、「あれはひどかった」「私は傷つけられた」「あの人は許せない」という意味づけを、何度も頭の中で再生してしまう。
その憤りを手放せないとき、私たちは「今は起きていないこと」で、自分を繰り返し消耗させている。
人に心ないことを言われて悲しくなったり、裏切られて傷ついたり――そういう体験は、残念ながら人生に付いてくる。
ただ、だからといって、過去の場面に意識を戻し続けると、エネルギーは減っていくばかりで、気分も沈んだままになる。
しかもこの反芻って、なぜか癖になる。
油断も隙もあったもんじゃない。
だから私は、いま与えられている状況の中で、平安や幸福を見つけていきたい。
過去にも未来にも、私たち全員に平等に与えられているものは、結局「いま」だけなのだから。
もちろん、過去が突発的に湧き上がってくるときもある。
それは、まあ、しゃあない。押さえ込むのも不健康だ。
出てきたものを「出てきた」と認めて、身体の感覚も含めてちゃんと味わう。
そして、どこかで区切りをつける。
手放すというのは、なかったことにすることではない。
ただ、今日の自分を削るために同じ場面を抱え続けない、という選択だ。
切り替えの方法は何でもいい。
大好きな音楽を聴く。
ニャンコをモフモフする。
孫の写真を眺める(効く。とても効く)。
自然の中に出て深呼吸する。
あるいは、ガヤトリーマントラを心の中で(または声に出して)、落ち着くまで唱えてみる。
そうやって私は、何度でも岸に戻ってくる。
岸に降ろしたのに、まだ抱えてしまう日があってもいい。
気づいた瞬間に、降ろせばいい。


