ひとりの生活は、思っていたより少し心細いものだ。
気を張っていないと、つい過去に視線が戻り、虚無感に吸い込まれそうになる。
「今わたしが粉々になって消えても、世界は何も変わらず回り続けるのだから、もういいじゃない」
そんなふうに思ってしまう瞬間もある。でも、そう思えたとき、ふと小さな壁を一つ越えたような感覚もあった。……もちろん、また次の壁は来るのだけれど。生きるって、ほんとうに面倒で、ほんとうに大変。
──これ、更年期ってやつ?(笑)
でもね、「ありがとう」の反対語は「あたりまえ」なんだって。
家族、友人、出逢ってくれた人、もう遠くへ歩いていってしまった人、優しさも痛みも残していった人たち。
そして、出来事のひとつひとつ。
そのすべてが、「あたりまえ」なんてひとつもなくて、実は奇跡みたいに尊い「ありがとう」の積み重ねだったんだと思う。
わたしの人生は今も、そんな小さな感謝の山を、少しずつ重ねながら進んでいる。
「生」は祝福であり、日々の体験は、どんなにささやかでも小さな祝祭なのだ。
――これは、瞑想直後のとても平和な心境のときに感じたこと。
でも現実って、これがすぐ薄れるのよね(笑)。
Meditation must be continuous.
瞑想の流れは、生活すべての中に流れていなくちゃいけないんだなあ。
さて、そもそも今日は音楽の話をしたかったんだった(笑)
シベリウスのアンダンテ・フェスティーヴォ。
“Festivo”と名がつくけれど、華やかな祝祭ではなく、静かな祈りのような清らかさをまとった音楽。
とてもシンプルで短い曲なのに、穏やかで優しくて、心に寄り添ってくる。
この曲を聴くと、なぜかメーリムの田舎の家の寝室の窓から見た田園風景がよみがえる。
北欧の音楽なのに、蘇るのはタイの田園の記憶。
シベリウスもそんな連想されるとは思ってなかったよね(笑)
でも、心が揺れているときに聴くと、自然と涙が滲んでしまう音楽のひとつ。
添えるYouTubeは、1939年、シベリウス自身の指揮による貴重な演奏。
音は古くて少し荒いけれど、それもまた歴史が宿る響き。第二次世界大戦直前、元日に、世界の平和を願って演奏されたと言われている。
なんて静かで美しい旋律なんだろう。
――やっぱり「生」は祝福だな、と思う。



