名前という、小さなマントラのようなもの

成熟のレッスン

言葉には、姿のない光が潜んでいる。それは、世界がまだ形を持たなかった頃の名残であり、魂の奥に波紋のように広がっている記憶のひとかけらでもある。
私たちが母語と呼ぶ音の源には、土地の風や水脈、そこに生きてきた人々の祈りが折り重なっている。言葉は文化のDNAであり、人が世界をどのように読み取り、どこに意味を見いだすかという見え方の回路をつくり出していると思う。
赤ちゃんですら、生まれる前から母語の響きを聞き分けているらしい。意識が芽生える以前、私たちはすでに「意味になる前の音」を受け取っているんだね。言語は、私たちの外側を整えるだけでなく、内側に眠る感覚にも、深く影響を与えているのだと思う。

言語がひとつ消えるとは、語彙が減るというだけではなく、誰かの視界が閉じ、世界から一筋の光が消えてしまうことではないだろうか。かつて誰かが見ていた美しい見え方が、この地上から静かに失われてしまうことなんじゃないかと感じている。
でも失われた叡智は消滅するわけではなくて、別の層、たとえばアカーシャ1のような意識の領域へと移り、成熟した心が再びそれに触れられる時を待っているのだとも感じる。

夜の星空の下で、胸の奥が淡く明るむ瞬間を幾度となく体験している。言葉より先に立ち上がる響きのような感覚が、自分の深部から浮かび上がってくることがある。あれはきっと、封じられた叡智の断片が、意識に再び現れてくる瞬間なのではないかという想像が広がる。言葉は世界を説明する道具ではなく、世界を思い出すための鍵 なんじゃないかな。

で、言語は文化全体を形づくるが、その最小の単位は「名前」なのだと思う。
名前って、その人の存在に響く音もっとも小さな言語で、内側の宇宙へ向けて開かれる、これもひとつの鍵のようなもの。
言葉が世界を映すように、名前はその人の内側に眠る風景を映し出す。言語が文化の記憶を携えているなら、名前は魂の記憶に触れるひとつの鍵なのではないか。


実はここでカミングアウトするのだが笑、インドで瞑想の日々を送っていたとき、私はひとつの名前を授かった。


Deva Mayuri・・・光をまとう孔雀、あるいは聖なる孔雀

その名を受け取った瞬間、言葉が意味を超え、まるでマントラのように存在の深い層に触れてくる音であることを理解した。
私はずっと以前から、コソコソと文章を書き留めているのだが、この名前を授かって以来、言葉を書くたびに、私のどこかで小さな羽根が震えるような感覚がある。名前が内側の宇宙への扉を開くたび、言葉そのものが光の粒となって胸の奥で瞬きはじめるような。もちろんまだまだ全然未熟なのだけどね。
言語には、魂がかつて知っていた光が宿っている。そしてその光は、旅の途上で再び思い出されていくのだと思う。

この名前を自然に名乗れる日は、まだ少し先なのかもしれない。
そこへ向かう道標として名乗ればいいとわかっていながら、今の私はまだ、この立派な名前の前で立ち止まり、遠い先を見ながら深呼吸をしているところだ。

Deva Mayuri
Walking the inner Universe, one light at a time.

  1. アカーシャ(Akasha)
    インド哲学で語られる「空(くう)/エーテル」のこと。音や言葉、記憶が生まれる最初の場とされ、形になる前の光が息づく領域ともいわれている。 ↩︎
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