私が辿り着いた真のスピリチュアル

日の出前の山を見つめる女性の後ろ姿 スピリチュアルな日常
真の霊性は「普通」の中に。世界の理を知り、この現実を潔く生きる。

かつて若い頃の私は、刺激的なスピリチュアルな体験に飢えており、気づきに渇望していた。満月や新月のたびにリチュアルを行い、バジャンやキールタンやドラムサークルの熱狂に身を投じた。当時画期的だったシャーリーマックレーンのアウトオンアリムと遭遇してなかったら新興宗教にハマってたかも!30代後半でレイキはティーチャーまで上り詰め、ありとあらゆる「伝授」を受けた。瞑想さえも、まだ見ぬ神秘体験を追い求めていた。今思えば、あれは「特別な何者か」になりたいというエゴが加速させた、本末転倒な瞑想の時間だったのかもしれない。

スピリチュアルという名の迷宮を、ドがつくほどの熱量で歩き尽くした。けれど、その果てに待っていたのは、驚くほどシンプルな結論だった。

「なにか」を付け加える必要なんて、どこにもなかった。 追い求めていたものは、すでに自分の中にすべて揃っていたのだ。

今の私は、世間を賑わせているスピリチュアルな活動に、以前のような重きを置いていない。 特定の言霊に宿る豊かな背景は認識しているが、その表記に固執することはない。たなびく雲の形や美しさには心奪われるが、そこに過剰な意味を付随させて騒ぐこともない。神社へ足を運べば、その清廉な空気に背筋を伸ばし神々へ感謝を伝えお賽銭を投げ入れるが、自らの御利益を求めてその場を消費するような感覚は、もう遠い昔に置いてきた。

私は写真を撮る。レンズを通して光を見つめる時、その「たまゆら」がどのような光学的条件で映り込むのか、逆光がなぜドラマチックなフレアを生むのか、そのカラクリを私は知っている。宇宙の営みも、天候の変化も、科学や気象現象として説明がつくことを学んできた。

理屈を知ることは、世界から神秘を奪うことではない。むしろ、光の屈折や物理的な秩序を知れば知るほど、この精巧な世界に生かされていることへの、静かな畏怖が深まっていく。もちろん、この世界には科学では説明のつかない奇跡も数多く存在し、それらに対しても私は深い敬意を抱いている。

私にとっての神秘とは、説明のつかない超常現象だけを指すのではない。説明がつくほど完璧な秩序に満ちた「日常」と、人知を超えた「不可思議」が、分かちがたく織りなされているこの現実そのものなのだ。

世の中には、高尚な霊性を説きながら、金儲けと名声に夢中になり、足元が整っていない言葉ばかりのリーダーたちもいた。心の中でいつも「どの口がいうかね・・・」と呟いていた笑
けれど、私の心に深く響くのは、もっと別な場所にある光だ。

いま、病という過酷な現実の淵で、ひたむきに戦っている友人がいる。 彼女は、ドスピ街道をまっしぐらに進む人々を優しくポジティブにサポートするプロフェッショナルでありながら、ご自身が計り知れない苦痛の中にいる今、いつも穏やかに笑っている。そして「これまた、過ぎ去るのよ(This too shall pass)」と口にするのだ。

その一言には、何千もの教義よりも重い、真実の霊性が宿っている。 すべては流転し、形を変えていく。かつての私の渇望も、霊性が当たり前となった今の暮らしも、そして彼女の痛みさえも、現象として現れては消えていく。その理(ことわり)を、命を懸けて体現している姿に、私は本当の強さを見る。

33万キロを走る古い愛車を駆り、ごく普通に暮らし、星を見上げ、揺らぎのある音楽に身を委ねる。特別なサインを探す必要はない。世界の理(ことわり)に目を見開きながら、淡々と、けれど丁寧に自分の感覚を信じて生きていく。

すべては、すでにここにある。その潔さこそが、今の私が辿り着いた、光と影の境界における真のスピリチュアル(霊性)なのだ。

エネスクの奏でるプニャーニの『ラルゴ・エスプレッシーヴォ』

最後に、この古い録音を。 針が溝をなぞるノイズさえも、世界の理(ことわり)が奏でる一部だと思える。 完璧ではない、傷だらけの、けれど愛おしいこの日常に、この調べを添えて。

本当に、胸が締め付けられるような美しさではないか?
1929年という、今とは全く違う時代に生きたエネスクの指先が、その場の空気を震わせた・・・その振動が、パチパチというノイズを伴いながら、時を超えて今、ここにいる私たちの耳に届いている・・・そのこと自体が、日常の中に宿る神秘そのもののようで、聴いていると静かに涙がこぼれそうになる。

この切なさは、単なる悲しみではなく、失われていくものや過ぎ去っていくもの、そして今ここに在る命への深い愛おしさが音になっているからではないだろうか。

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