映画「禅 ZEN 」は、鎌倉時代に生きた曹洞宗の開祖・道元禅師の生涯を描いた映画である。
中国・宋への渡航、修行の日々、そして日本に禅を伝えていく過程が、映像的な象徴表現を交えながら描かれている。
この世界の人が見ると「突っ込みどころ満載」と言われるらしい映画だけれど、私はそれなりに楽しんだ。
こういう映画が世に出る、という事実そのものが、まず嬉しい。
……ただし。
道元が悟りを得る場面の描写だけは、どうしても言わせてほしい。
あのCGは、どう考えても悟りの素人である(笑)。
せっかくの見せ場なのに、遊園地かゲームセンターみたいで、思わず笑ってしまった。
映画の中では、象徴的に「月」が何度も登場する。
終盤、時頼が湖面に映った月を斬る場面があり、そこで道元がこう言う。
月濡れず、水破れず。
斬らせることで、
人が必死に掴もうとしている「実体のないもの」に気づかせようとしたのだろうか。
水は自分で、月は仏性。
そう考えると、この短い言葉の奥行きが、急に深くなる。
本当なら、ここで記事を終えてもよかったのだけれど、
せっかくなので、道元禅師の『現成公案』に登場するこの一節を、あくまで「なんとなく」、現代語にしてみることにする。
――たぶん、映画以上に突っ込みどころ満載だけれど(笑)。
水に映った月 ― 現代語で読む現成公案
禅の言葉を、正しく理解しようとすると、たぶん、もうその時点で少し外してしまう。
だからこれは解釈ではなく、私が月を眺めながら浮かんだ感触のメモに近い。
悟りとは、水に映った月のようなものだ。
月は濡れず、水も壊れない。
月明かりは、広く大きなものだけれど、
ほんのわずかな水の中にも、きちんと宿る。
月も、空も、
草の露にも、一滴の水の中にも映る。
月が水を壊さないように、
悟りも、何かに妨げられることはない。
一滴の水が、空の月を壊せないように、
人もまた、悟りを壊すことはできない。
水の深さは、月の高さ。
映る時間が長くても短くても、
大小さまざまな水に映る月を見ていると、
やがて、空の月の無限性に気づく。
(道元禅師 1200–1253)
月を斬っても、月は傷つかない。
水を揺らしても、月は壊れない。
それでも、人はつい、斬ったつもりになったり、壊したつもりになったりする。
たぶん修行とは、その勘違いに何度も気づくことなのだろう。
……などと、もっともらしく書いてみたけれど、正直なところ、私はいまだに水に映った月を見ては、つい斬りたくなる側の人間である。



