標高1120m、虹色の雲の贈りもの

スピリチュアルな日常
彩雲に導かれた夜|彗星を待った山上で受け取った別の祝福

山道を抜け、視界がぱっと開けた瞬間だった。
夕暮れの空の一角が、虹色にほどけていた。

彩雲。
これ自体は、実は何度も見たことがある。けれど、あの夜の彩りは少し違って感じられた。
写真で見る「現象」ではなく、空気の温度や匂いごと、胸の奥に届いてくる光だった。
祝福というより、「気づいて」と呼ばれた感覚に近い。見えない世界の扉が、ほんのわずかこちらに傾いたような。

この夜は、ただの「彗星を見に行く日」ではなかった。
実は何日も連日、チェンマイのサムーンの同じ場所へ通っていた。彗星ドライブと呼ぶには、あまりに勝率が低い。空は曇り、雲は居座り、稲妻ばかりが派手に光る。連続の敗北続きだった。

ここまでの時点で、Swan彗星がカメラに本当に小さく、うっすら写ってくれただけ。
「これ、写ってるよね?この緑の点がそうだよね?」と拡大して、息を止めて確認するような、あの程度の一勝。肉眼ではもちろん見えない。写真の中の粒のような光を、証拠みたいに大事にするしかなかった。

(この写真、拡大するとアンタレスの右上、へびつかい座の下に実は緑のSwan彗星が写っている笑。10月13日撮影)

それでもまた行ってしまうのは、彗星そのものに会いたいというより、会えるかもしれない夜の気配に、自分の感覚を賭けてみたかったからだと思う。
見えないものを信じる練習みたいなものかもしれない。

さて、山道のカーブで見え隠れする彩雲を楽しみつつ、標高1120メートルの見晴らしの良い場所に着くと、すでに先客がいた。
欧米人のファミリーが、夕焼けと見事な雲を楽しんでいて、写真をせっせと撮っている。微笑ましい光景だった。

けれど不思議なことに、正面右側の空にいちばん鮮やかな彩雲が出ているのに、彼らはまったくそちらを見ていなかった。
みんな同じ空の下に立っているのに、視線が向かう場所が少し違うだけで、見える世界はこんなにも変わるのか、と驚いた。

しばらくは黙っていた。
でも彩雲は刻々と薄くなっていく。迷った末に、思い切って声をかけた。
「あっちに彩雲、出てますけど!?」

次の瞬間、彼らは一斉に振り向き、目を丸くして、感嘆の声をあげた。
そして慌ててカメラを向ける。さっきまで気づかなかったのが嘘みたいに、その場の空気が明るく弾んだ。

目の前にあっても、気づかないものがある。
そのことにいちばん驚いたのは、たぶん私自身だった。
気づけるかどうかは、目の性能ではなく、心の向きの問題なのかもしれない。

この夜の空は厳しかった。
Swan彗星のあたり――ちょうど天の川の中心方向には巨大な積乱雲が鎮座し、Lemmon彗星の方向にも低い雲が重なっていた。
雲は、こちらの期待など意に介さない顔をして、淡々と空を支配している。

彗星には出会えない。
そう悟ったとき、悔しさより先に、なぜか可笑しさが込み上げた。ここまでの熱量ごと、空に見透かされている気がしたからだ。

その代わりに、夕空は彩雲という贈りものを差し出した。
「今日は星ではなく、光を見る日だよ」
そんなふうに、空が教えてくれた気がした。

彩雲は、太陽の光が雲の水滴や氷晶で屈折・回折して生まれる自然現象だという。
理屈は知っている。けれど、理屈がわかったところで、あの瞬間が薄まることはない。
科学と感受は対立しない。同じ光を、別の角度から抱きしめているだけだ。

やがて太陽は完全に沈み、彩雲の色は静かにほどけて消えていった。
最後の一筋が闇に溶ける頃、山は夜の帳に切り替わる。雲はさらに広がり、空を覆った。時折稲妻が走り、雲の内部だけが一瞬白く透ける。
彗星どころか、星ひとつ見えない夜だった。

けれど、願いが叶わない日にも、その裏側には別の形の祝福がある。
結果を追いかけるためではなく、その瞬間に出会うために、私たちは人生という旅をしているのかもしれない。
彗星に会えなかった夜、夕空はそれを虹色の雲で知らせてくれた。

ラヴェル《クープランの墓》より「メヌエット」

BGMはラヴェル作曲の「クープランの墓」(管弦楽版)より「メヌエット」。
オーボエの音色が、夕空の虹色がほどけていく瞬間のように、軽やかで、どこか切ない余韻を残す。

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