Part 1−3|存在しているだけで、完全に愛されていた

生と死
存在しているだけで、完全に愛されていた|アニータ・ムアジャーニの講演から

〜アニータ・ムアジャーニの講演からPart1−3
この投稿に関して、まずはなぜこの講演を訳して記録しておこうと思ったのかの理由をPart1-1に「アニータ・ムアジャーニの言葉と、今のわたし」として書きましたので、ご参照いただければと思います。

絶対なる無条件の愛

そして私は、自分が絶対なる無条件の愛に包まれているのを感じました。
本当に信じられないほどの愛のフィーリングでした。人生の中で、あんなふうに愛を感じたことは一度もありませんでした。

私は生涯を通じて、自分が何者であるかを証明しようとしてきました。
愛を受け取るにふさわしい人間になろうとしていたのです。

でも、あのときは違いました。
私がそこに存在しているという、それだけの理由で、完全に愛されていたのです。

何かをする必要はなかった

何かをする必要はありませんでした。
誰かになる必要もありませんでした。

ただ、存在しているだけで、愛されていたのです。

「無条件の愛」という言葉を使っていますが、正直に言うと、その言葉でさえ、あの感覚を表すには力不足だと感じます。
「愛」という言葉自体が、あまりにも乱用されていると思うのです。

ただ、そこに在るということ

「無条件」という言葉も、どこか冗長に感じます。
だって、もし愛に条件がつくのなら、それはもう愛ではないでしょう?

私が感じた愛は、
自分が存在しているというだけで、価値があると知る感覚でした。
他に理由は何もありませんでした。

私たちは、ひとつだった

そして私は、壮大な広がりを感じました。
その気づきの中で、私の意識に入っているすべての人たちが、互いにつながっていると感じられたのです。
まるで、私が彼らとひとつになったかのようでした。完全にひとつ。

夫が感じていたことも、私にはわかっていました。
彼は私の身体のそばに座り、手を握りながら、私が戻ってくることを願っていました。その思いを、私ははっきりと自覚していました。

すぐそばで看病してくれていた母が感じていたことも、すべて感じていました。
医師や看護師たちが感じていたことにも気づいていました。
彼らが話していることはすべて聞こえていたし、彼らがしていることも、すべて見えていました。

身体は、そこにあった

私の身体は窒息状態にあり、医師が私の背中に針を刺して、水を抜く処置をしていました。
その様子を、私はすべて見ていました。

でも、不思議なことに——
その身体は、私が体験していたあの感覚と比べると、あまりにも取るに足りないものに見えたのです。

ベッドの上に横たわっているその身体は、とても小さく、取るに足りないものに感じられました。

私は自由でした。
完全に解き放たれていて、軽くて、制限がありませんでした。

そして何より、
私は完全に、愛の中にいたのです。

考察メモ

  • 「価値」は、何かを成し遂げた結果ではなく、存在そのものに宿っているという感覚
  • 愛を「条件付き」で理解してきた人生が、ここで根底から反転していること
  • ワンネスは観念ではなく、他者の感情がそのまま自分の内に流れ込んでくる体験として語られていること

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