揺れる心で友を思う

痛みと光の間
揺れる心で友を思う

大切な誰かが病と向き合うとき、日常の風景は同じように見えていても、心の奥では小さく波が立つよね。

未来への願いと、不意に押し寄せる不安が、同じ場所で共存するから。

以前、闘病を続ける友人のそばにいたことがあってね。

私が姉のように慕っていた親友で、働き者で動けなくなるぎりぎりまで仕事を続けていたけれど、いよいよ身体が自由にならなくなったとき、彼女が少しでも前向きになれるように、車椅子を押して外へ連れ出す日々が続いた。旦那さんは仕事もあったしね。

あの頃の私は、彼女の表情に少しでも風が通る瞬間があれば、それだけで救われる気がしていた。たくさん将来の夢の話もした。

毎日のように付き添っていたのは、彼女を励ましたいという思いもあったけれど、正直なところ──私自身が、家にじっとしていられなかったから。そばにいることでしか、どうにもできない無力さを抱えきれなかったのだと思う。

けれど、どれほど寄り添っていても、越えられない境界がある。

いま、またある大切な友人が、自分の選んだ方法で病と向き合っている。治療は本人が決めるものだと頭では理解しているし、その選択を尊重したいという思いももちろん本物だ。

だけど、過去の記憶が胸のどこかに沈んでいるぶん、「いまならまだ、違う選択ができるのでは」という思いが、ふいに奥のほうでざわめくことがある。あのときの、どうしようもなく悲しい別れをもう二度と味わいたくない・・・そんな痛みが、今も強烈に残っているんだよ。

その揺らぎは、決して彼女の選択を否定したいわけではなく、ただ、大切な人の未来を願ったときに生まれる、ごく人間的な痛みなのだと思う。

そしていま、私のまわりには、もうひとり病と向き合っている大切な人がいる。
その友人は最新の西洋医学の治療のなかで病気を克服しようとしている。

私はこの二人の友人たちの回復を疑ってはいない。
選んだ道の先には、彼女たち自身の力でひらく未来が、絶対に確かに残されていると本気で感じているからね。

人が自分の力で「生きよう」とする瞬間は、それぞれに違っていて、それぞれに尊い。

二人を思うとき、私はただ、その選んだ道の先に光が続いていることをひたすら願わずにはいられない。

最近、友人がぽつりと「来年はまた見られるかな」「2年後かあ、わたしいるかな?」などと言うようになった。その言葉に触れるたび、ああ、そんなふうに未来を見ているんだ…と思うと、胸の奥でなにかが崩れるような奇妙な感覚をおぼえる。来年や2年後にはその友人がいないという風景を、たとえ単なるイメージとしてでも、私は絶対に思い描きたくないのだよ。

今、バルコニーに出てみると、東の空に木星が輝きはじめ、いつもの冬の星が瞬いている。私の揺れる心など知らないように、世界は淡々と回り続けている。

やがて朝になれば陽が昇り、川は迷いもなく下流へ流れ、遠くでは犬が吠える音がして、誰かの日常がふつうに続いていく。

世界は移ろい続けて、日々の風景はいつもと同じように流れていく。そんな日常の中で、自分だけがどこか少し取り残されたような気持ちになることがあるんだよね。

いろいろな矛盾を抱えながら、それでも誰かを思い続ける・・・。それが友人として「寄り添う」ということなのかもしれない。私にできることは多くはないけど、快復を心から願いつつ、大切な人たちの選んだ道を見守り、応援したいと思う。

それが、いまの私なりの友情の愛の形なのかなあと思ってる。

昨日撮ったこの4秒の空では、牡牛座とオリオンがゆっくりと天頂へ向かい、東の地平からは木星がひと粒のダイヤみたいに昇ってくる。たった数秒の光の動きに、世界が静かに巡っていることを思い出させてもらった。

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