星空のシャクティパット:無条件の恩寵を受け取るために

北斗七星と流れ星を背景にした仏塔の夜景。宇宙の恩寵と静寂を象徴する一枚 瞑想
星空のシャクティパットと脳波の跳躍|無条件の恩寵を受け取るために

インドの古い精神伝統の中に、「シャクティパット」という言葉がある。サンスクリット語で、聖なるエネルギー(シャクティ)が、師から弟子へと降り注がれる(パット)行為を指す言葉だ。それは、自分一人の力では辿り着けない高い意識の状態へと、誰かの手によって一気に引き上げてもらう、「魂の点火」のような儀式。通訳で関わる以前から精神世界に身を置いている私にとって、それは特別な、どこか選ばれた人のための恩寵のように響いていた。

けれど、チェンマイの深い夜、漆黒の空に溢れ出す星々を前に一人立ち尽くして気付かされるのは・・・

宇宙という巨大なマスター(師)は、誰の仲介も、何の許可も必要とせず、今この瞬間も無数の光の矢を私たちに放ち続けている。それは、形を変えた、あまりにも壮大な「シャクティパット」ではないか、ということだ。

振り返ってみれば、私はその「感覚」を、ずっと前から知っていたように思う。

それは、特定の誰かから伝授を受けるよりもずっと前、まだ言葉さえ十分に持たなかった子供の頃。夜空に吸い込まれそうになりながら、ただ星を見上げていたあの瞬間。あるいは、魂を震わせる音楽に出会い、自分という境界線が消えて音そのものになった瞬間。

あるいは、野草の芽吹きを見つけた子供たちの背中に、あるいはただそばにいる子猫の温もりに、理屈を超えた「無条件の愛おしさ」を感じる、あの静かな爆発のような一瞬だ。

私たちはそれを普通のこととして通り過ぎてしまうけれど、そこには間違いなく、宇宙とのダイレクトな同期が起きていたはず。特別な許可証も、高額な対価も必要としない、生命そのものに備わった跳躍の力。

マントラを知るよりも、瞑想を学ぶよりもずっと前から、私たちは宇宙からの無言のシャクティパットを、日常の至るところで受け取っていた。ただ、大人になるにつれて、その扉の開け方を忘れてしまっただけなのかもしれないね。

こうした自分という境界線が消える瞬間、私たちの内側では一体何が起きているのか?

先日の投稿でも言及した、脳科学の分野で注目されている「ガンマ波」という脳波。 通常、私たちが瞑想でリラックスしているとき、脳はゆったりとした「シータ波」の状態にある。それはまどろみのような、静かな海のような状態だ。しかし、そこからさらに意識が深まり、宇宙の広大さや音楽の深淵に完全に没入したとき、脳波は突如として「ガンマ波」へと跳ね上がる。それは静かなまどろみから、一気に光り輝く覚醒へとギアが変わるような、劇的な大ジャンプだ。

一見、リラックスとは対極にあるフル稼働の状態。 膨大な星々の光という情報、あるいは予測不能な音楽の響きを脳が統合しようと一点に収束していくとき、皮肉にも余計な雑念は消え去り、そこには圧倒的な静寂が訪れる。

前回の投稿へのFBへの返信で、ある熟練の瞑想者の友人がこんなコメントを残してくださった。 「心地よいだけのヒーリングミュージックよりも、複雑な不協和音こそが、意識を一点にフォーカスさせる『着火装置』になることがある」と。

チェンマイの夜空を見上げる体験も、実はそれに似ているんだと思う。 漆黒の闇に散りばめられた、数えきれないほどの光の粒。それは、私たちの日常的な脳が処理できる情報量を遥かに超えている。ある意味、宇宙が放つ圧倒的な不協和音と言ってもいいかもしれまない。

けれど、脳がその膨大な情報の密度に真っ向から向き合い、全細胞でそれを統合しようとフル稼働を始めるとき・・・

思考の限界を超えた超高度な集中のなかで訪れる一点の静寂が、無限の広がりに溶けていく感覚が起こる。

意識は一点にありながら、360度すべてに対して開いている状態・・・

一点を見つめながら、同時に宇宙全体と溶け合っている・・・

そんな開かれた静寂の中に身を置くとき、私たちは自らの意志を超えて、大きな流れの一部へと跳躍していく。
これこそが、古の僧侶たちが、厳しい修行の果てに辿り着こうとした空(くう)への扉であり、私が星空の下で感じた無条件の恩寵の正体ではないかと思うわけだ。

このような跳躍へと至るための装置は、世界中に、そして歴史の中にいくつも存在する。

「シャクティパット」や、私が長年携わってきた瞑想の伝統にある「マントラの伝授」もその一つだ。 聖なる響きを師から授かり、その特定の振動に意識を委ねることで、個人の思考を超えた領域へと導かれる。それは、古(いにしえ)から受け継がれてきた、美しく、かつ強力な「意識の調律」の技法であることは間違いない。

特定の形式や対価を伴うその扉を通ることで、救われ、飛躍的な進化を遂げる人がいることもまた、この世界の確かな真実であり、一つの美しいプロセスだと思う。

けれど、同時に伝えたいことがある。 その特別な扉を叩くことが叶わないときでも、あるいはその形式に馴染めないと感じるときでも、絶望する必要はないということ。

当然のことだけど、宇宙は、特定の儀式や高価な対価のなかだけに閉じ込められているわけではないからだ。

もしあなたが、今どこかで孤独を感じていたり、何かに依存することに躊躇していたりするのなら、どうか夜空を見上げてみてほしい。 チェンマイの漆黒の空に溢れ出す光の粒。それは、誰の仲介も、何の許可も必要とせず、今この瞬間もあなたに降り注いでいる宇宙からの直接のシャクティパットなのだから。

先ほどの熟練瞑想者の友人が、さらにこんな深い言葉を贈ってくれた。 「役割は時として否定的に見えるけれど、すべてが意味をなしていると捉えてみると、宇宙は完全ですね」と。

思えば、伝統的な伝授というシステムも、それを生業とする人たちも、あるいはそこにある摩擦や違和感でさえも、この広大な宇宙のハーモニーを構成する一つの役割なのかもしれない。何かが正しくて、何かが間違っているという二元論を超えて。 特別な扉も、日常の星空も、すべてが私たちを本来の場所へと連れ戻すための、宇宙の完璧な采配。

宇宙の恩寵を受け取るのに、特別な許可証はいらない。 必要なのは、ただ大きく息を吸って、その圧倒的な美しさの前に自分を投げ出す勇気だけ。 それだけで、自分の脳は、魂は、自ら跳躍を始めることができる。

扉は、最初から、そして今この瞬間も、私たちの目の前に開かれている。

(トップの写真は、ランパーンの天空の寺院で撮影した北斗七星に落ちる流れ星。伝統という仏塔、漆黒の夜空、そして降り注ぐ光のシャクティパット。なんだか象徴的だなって思って。)

ジャン・ミシェル・ブレの roses

最後に、この文章を綴りながら、私の傍らにあった音楽を。 ジャン・ミシェル・ブレのroses。

実はこの曲、亡くなった友人へ捧げられた弔いの曲なのだそう。そう聞くと、どこか悲しい響きに聞こえるかもしれない。けれど、この旋律を聴いていると、死とは単なる終わりではなく、「個」という小さな枠組みを脱ぎ捨てて、広大な宇宙の静寂へと還っていく、一つの「跳躍」のように感じられてならない。

暗闇があるからこそ、その光はどこまでも清らかで、純粋に響く。中盤から後半へと向かう、ため息が出るほど美しい展開の中に、私は「個」を超えて宇宙の完全性に溶け合っていく、あの無条件の恩寵の響きを見つけた。

音の粒の一つひとつが星の瞬きと重なるような曲。音が重なり合い、感情が溢れ出しそうなほどの密度に達したとき、不思議と音量に反して意識が真っ白になるような深い静寂が訪れる。それがまさにここで書いてきた「フル稼働が逆説的に不動の静寂を生む」というプロセスの、音楽による再現のような気がして。

この曲の旋律とともに、あなたの内側にも静かな「跳躍」が訪れますように。

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