建築家と、孤独という基音

ドイ・ルアン・チェンダオと女性 痛みと光の間
建築家と、孤独という基音|ジョージア合唱と仏陀の言葉から考える成熟の孤独

今日は、あることがきかっけで、映画『リトル・ブッダ』で観た、悟りの場面を思い出す。

嵐のように押し寄せるマーラ。
恐れや欲望が姿を持って迫ってくる。
けれどブッダは動かない。
ただ座り、静かに言う。

建築家(Architect)1よ、お前を見た。

その言葉の響きが私の内側で広がりはじめた。

若い頃、孤独は自由だった。
二十代のはじめ、アフリカ。
レイク・バリンゴの夕暮れ、湖畔はフラミンゴでピンク色に染まり、 空の赤との境界線が曖昧だった。
そのあまりの広さと静けさに、私は猛烈な孤独に圧倒された。
けれど、不思議とそれは心地よかった。
怖ささえ、楽しかった。
孤独は拡張だった。
旋律のように、私を前へ押し出す力だった。

歳を重ねると、孤独は質を変える。
愛する人を持ち、 家族を持ち、 仏陀のいう「建築家」として、人生にいくつもの部屋を増築していくあいだ、 孤独は遠のいたように見えた。

そして今。
夫を見送り、 子どもたちはそれぞれの人生を歩み、 かつて中心だった部屋はすっかり静かになった。
孤独は戻ってきた。

それが音楽でいうドローン2のように、 低く、確実に、私の土台で鳴り続けている。
私は昔から、その音が好きだった。
旋律よりも、 基底で鳴る持続音に気づくと、 いつも少しゾクッとした。
底抜けに美しく、 どこか真理に近いものに触れたような感覚。
ドローンは、たいてい気づかれない。
けれど耳がそこに向いた瞬間、 私は思う。
ああ、ここが中心だったのか、と。

もしかすると私の孤独も、 ずっとそうだったのかもしれない。
若い日の孤独が旋律なら、 いまの孤独はドローンのような基音3だ。
自由は、いまもある。
けれどそれは、もう拡張ではない。
何者かにならなくていい自由。
増築しなくていい自由。
基音だけで、十分だと知る自由。

仏陀が見破った「建築家」とは、何度も家を建てさせる衝動――
欲望や執着、愛への渇き、何者かになろうとする心の動きのことだという。
私は長いあいだ、その建築家に従ってきた。

けれど今は、家を建てなくても音は鳴り続けていて、私はただ、その音を聴いている。
夜空の底でも、何かがずっと鳴っているというささやかな気づき。
私の孤独もその小さな一音。

そして、ときどき ほんの少し旋律を重ねる。
星を見上げる夜や、 早朝の鳥の声や、 赤い口紅4を引く朝のような、小さな音を。
孤独を消すためではなく、 その基音を、より美しく響かせるために。

いまは、その響きの中にいる。

音楽:Tsintskaro(ツィンツカロ)

ジョージア(グルジア)の伝統的な多声合唱。
地鳴りのように響く低音の持続(ドローン)の上を、震える旋律が静かに漂う。

低音は大地のように鳴り、中声が空間を満たし、高声は祈りのように浮かび上がる。

その響きは、旋律よりもむしろ土台に心を奪われる。
圧倒的に美しいのは、動かない低音のほうだ。

余談だが、この旋律はKate Bush がアルバムHounds of Love のHello Earth で引用したことでも知られている。

宇宙から孤独な地球を眺めるあの荘厳な響き。
夜空の底で鳴り続ける「基音」のイメージと、どこか重なる。

けれど私が惹かれるのは、別のところにある。

この古い録音。
Youtubeには、この曲の新しい音源がいくつも出ている。
でもどうしてもこれがいい。
どこにでもいそうな人たちが、口を開いた瞬間、宇宙の深淵のような響きを生み出すこと。
着飾ったスターではなく、日々の生活を営む人々が、当たり前のようにあの音を奏でる。

派手な旋律(ドラマ)がなくても、暮らしの底にはこんなにも深い響きが流れているのだという証明。

何者かにならなくてもいい。ただ、この人たちのように、自分の中の音を聴き、静かに響かせていればいい。

  1. 仏陀の語る「建築家(Architect)」:仏陀が悟りを開いた際、自分の中に「苦しみの家」を何度も建てさせてきた衝動(エゴや執着)の正体を見破り、「建築家よ、お前を見た。もう二度と家を建てることはない」と宣言した一節に由来する。 ここでは、「外側」へ向かって家を建て、部屋を増やし続ける動的な衝動、人生において「何者かになろうとする」「何かを積み上げようとする」絶え間ない生存の衝動として表現している。 ↩︎
  2. ドローン(持続音): インドの民族音楽やバグパイプ、中世ヨーロッパの宗教音楽などに見られる、高低の変化なく一定の高さで鳴り続ける音のこと。 常に背景で響き続けるこの音は、移ろいゆく旋律(メロディ)の帰還場所であり、曲全体の調性を支える「不動の土台」としての役割を持つ。このエッセイでは、「内側」に最初からあり、すべてを支えている静かな真理を指している。 ↩︎
  3. 基音(Root Note): 和音や旋律の根底にあり、その曲の「中心(家)」となる最も重要な音。 ↩︎
  4. 赤い口紅:孤独を彩るひとつの儀式として。この記事に至る心境の変化については、こちらの記事「赤い口紅は小さな鎧」を ↩︎
タイトルとURLをコピーしました