寂しさは、誰の人生にも静かに訪れる。
家族に囲まれていても、友に恵まれていても、ある日ふと胸に落ちてくる影のように。
けれど私たちは、その寂しさとどう付き合うかによって、人生の質を大きく変えていくことができるのかもしれない。
私はいま、そのことを少しずつ学び直しているところだ。
「孤独」と「寂しい」の違い
「孤独(solitude)」と「寂しい(loneliness)」は、本当は別のもの。
日本語では「寂しい」は悲しみや欠落の感情だけれど、「孤独」はただ一人である状態を指す言葉。必ずしもネガティブではなくて、むしろ味わい、楽しむこともできる。
英語では、solitude は「選んだ一人時間」、loneliness は「望まない寂しさ」というふうに区別されることが多い。
同じ「ひとり」でも、心の質はまったく違う。
(ちなみに心理学やスピリチュアルの世界では、aloneness という言葉が「存在としてのひとり」「自分と深くつながる在り方」として語られることもあります。)
思い返せば、若い頃の私はもっと孤独を楽しめていたと思う。
特にアフリカにいた頃、一人であることは怖さよりも自由やワクワクと結びついていて、「一人だからこそ見えた景色」「一人だからこそ経験できた深い時間」に満たされていた。
「寂しさ」と依存
夫が旅立ち、大家族の暮らしから一人の生活に変わり、そして年齢を重ねたいま、私の人生は再び「一人を楽しむ生き方」を求めているはずなのに、実際には「孤独」よりも「寂しさ」に心が強く傾いてしまうことがある。
もし、慈しみ合える人生の伴侶に寄り添えたら、どれほど幸せだろう。
でも、寂しさに伴った孤独感には、少し危うさが潜んでいると思う。
心が弱っていると、出会った相手に過度に寄りかかってしまい、「その人がいなければ幸せになれない」という幻想を抱きやすくなる。
「寂しいから」「不安だから」「人生が心細いから」という理由で誰かを求めるのは、相手にも自分にも優しくない関係を生みやすい。
誰かが私の人生を「修理」してくれるわけではない。
最終的には、自分自身の足で立つ覚悟が必要なんだと思う。
寂しさを紛らわせるためだけに誰かと一緒にいても、心が本当に繋がっていなければ、寂しさは消えないどころか、むしろ不安は強くなる。
だから私は、「一人でいても大丈夫」と胸を張って言える精神的な自立を育てていきたい。
そのほうが依存ではなく、対等であたたかな関係を築けるはずだし、そしてなにより、相手をより深く思いやれる気がする。寂しさの波に飲み込まれているとき、人はどうしても「欲しいもの」「満たされない思い」に意識が偏り、相手から受け取ることばかりを求めてしまいがちだから。
私は、寂しさに飲み込まれて振り回される人生ではなく、寂しさと共存しながら、孤独を味方にできる生き方を選びたい。
そして、もしその道の先で出会う愛があるなら、それは不安や束縛、見返りを前提としない、もっと静かで確かな愛なのだと思っている。
寂しさを超えていくのは「愛」
精神世界の視点から見れば、私たちは皆、宇宙の源から生まれた光のひとかけら。
本当は分離そのものが幻想で、孤独や寂しさは、肉体という個を生きることで体験する、とても人間らしい錯覚の一部なのかもしれない。
大いなる源から生まれ、無数の経験を通して魂を成熟させ、また源へと還っていく。
その長い旅の中心にある学びは、結局いつも「愛」に行き着く。古今東西のマスターたちが語ってきた真理は、きっと同じ一点に重なっている。
その最終段階は「自分自身が愛そのものになる」ことなのかもしれない。
その始まりとして、まずは自分を愛すること。
寂しさに圧倒されているときこそ、自己愛に取り組む大切なタイミングなんだと思う。
最近の私は、日常的なセルフケアのような自己愛だけでなく、もっと深いところでの自己受容を意識している。
自分を偽らず、自分に嘘をつかず、どんな自分も抱きしめていくこと。
たとえ見たくない感情や、あまり好きになれない自分であっても。
醜い自分を肯定する、という意味ではないけれど、否定し続けても癒されることはない。
光に向けて抱き締め直していくしか、超えていく方法はないのだと思う。
普遍な愛は枯れない泉のように、本来、私たちの内側で静かに湧き続けている。
その流れと再び繋がるとき、私たちは「愛の不足」という感覚から自由になり、寂しさという幻想からも解放されていくのだろう。
Both Sides Now
今日添えたい音楽は、ジョニ・ミッチェルの “Both Sides Now”。
79歳の彼女が歌う最新版の歌声は、ただ美しいだけでなく、人生の深さと痛みと輝きが静かに溶け合っていて、胸の奥の閉ざされた場所にまで届いてくる。
若い頃の彼女の歌も大好きだけれど、「生き抜いてきた時間」が音に宿っているこの歌には、また別の真実がある。
人生も、愛も、孤独も、一方向から見ただけではわからない。
視野は広く保ちたいけれど、人は寂しいときほど視界が狭くなってしまう。
そんなとき、別の側面から世界を見せてくれる歌や言葉に出会えるのは、幸運だと思う。
以下に、私なりの訳を添えておきます。
上手く訳しきれないニュアンスもあるけれど、心で受け取ってもらえたら嬉しい。
Both Sides Now
幾重にも流れる天使の髪
天空に浮かぶアイスクリームのお城
そしてあちこちへ広がる羽毛の渓谷
わたしはそんな風に雲をみていた
でも今、雲は太陽の光を遮り
みんなの頭上に雨や雪を降らせるだけのもの
やりたいことがたくさんあったのに
雲がわたしの邪魔をして来たの
今、わたしは雲を両側から見つめている
上からも下からも
でもね、思い出すのは記憶にあるただの雲の幻影で
実は雲のことなんて何もわかっちゃいない
満ちては欠けるお月様や巡り来る6月や観覧車
くるくる回るダンスみたい目が廻る
おとぎ話は実現するものだと
わたしはそんな風に愛をみていた
でも今それはまるで別のお芝居のよう
笑って舞台から降りよう
気になってもそれをわからせちゃだめ
自分を捨ててはいけない
今わたしは愛を両側から見つめている
与える側から、受けとる側から
でもね、思い出すのは記憶にあるただの愛の幻影で
実は愛のことなど何もわかっちゃいない
涙と恐れそして誇らしい気持ち
「愛してる」って大声で叫ぶこと
夢や計画やサーカスの人混み
わたしはそんな風に人生をみていた
でも今古い友人たちは変な振る舞い
彼らは頭を振って私が変わってしまったと言う
そう、いろいろ失ったし、手に入れたものもあったしね
今日まで生きてきたんだから
今わたしは人生を両側から見つめている
勝者の側や敗者の側から
でもね、思い出すのは記憶にあるただの人生の幻影で
実は人生のことなど何もわかっちゃいない



