今年もあっという間に師走。
年が押し迫ってくると、私はその年をどんな心で歩いていきたいのか2018年に書いた『預言者』の記事を、2025年の今、あらためて読み返してみた。
同じ言葉なのに、胸に届く意味はまるで違っている。死を見つめていた視線は、生きている私自身へと静かに反転していた。年月とともに息を変えるジブランの言葉と、いまの私の立ち位置について。を静かに思い巡らす。
2018年の新年、私はブログにカリール・ジブラン『預言者』についての投稿をしている。→カリール・ジブラン『預言者』―― 死と苦しみをめぐる静かな慰め
人生のどんな地点にいても、ふと立ち止まって読んだり、パラパラとページをめくって適当な場所を読んでも、心の深いところで何かしらの気づきがおこるような本だ。
今日はもう一度、あの当時私が書いたことを振り返ってみようと思ってね。
当時のブログを読み返してみると、まるで年月の向こうから今の私に語りかけてくるようだった。
あの頃何度も読み返した「死について」。
夫を失った私は、生活上はしっかり立ち直ったように見えて、実は喪失の暗い底の中にいて、その詩の一行一行に縋るようにして呼吸を整えていた。
けれど今、同じ言葉を読み返してみると、胸に響いてくる意味が、当時とは少し違っている。
「死ぬとは風のなかに裸で立ち、太陽のなかに溶け込むことではないか?」
あの当時はこの一文を初めて読んだ瞬間、夫が、大きな源へと融けていく静かな光景が、まざまざと心に浮かんだ。
「あぁ、彼はいま、全体と一つになっているんだ。」
「こんなにも自由で、こんなにも安らかなところに還っていったんだ。」
と感じて、死を 終わりではなく、還ることとして捉えられるようになり、どこか祝福のように感じたいと願い、それを慰めとしたけれど、今の私は、死をめぐる詩の奥にある生きている者への視線に、以前よりも強く心を動かされる。
あの言葉がゆっくりと反転して、
「生きている私はどこへ向かって溶け込んでいくのだろう?」
そんな問いが静かに湧き上がってくる。その光景の中心にいるのは、もはや夫だけではない。
死の理解は、いつも生の理解とつながっていて、生の輪郭は、年齢と経験と傷ついた場所の数だけ、少しずつ変わっていくものなのだろうな。
そんな感じでもう一度だけ、この詩に立ち返ってみたくなったのだと思う。
宇宙の視点から見れば、ひとりの死は、体内で入れ替わる細胞のひとつが役目を終えていくようなものだと、以前のブログに書いた。 私たちが大事件のように受け止める出来事も、広い宇宙にとっては、ごく静かに流れていく変化のひとかけらにすぎない。
星が生まれ、星が消えていくように、絶え間なく形を変えつづける大きな循環の中で、
生と死はどちらも特別な現象ではなく、ひとつの流れが次の流れへと移っていく自然な動きなのだと思う。
そのリズムのなかでは「終わる」 という言葉さえ、もしかしたら人間の言語に過ぎなくて。
本当はただ、形を変えて別の在り方へ移っていくだけなのかもしれないよね。
そんな風に考えるようになってから、
死という出来事に貼り付いていた固い輪郭が、
少しずつ、やわらかいものへと変化していった。
「消える」のではなく、
「移る」
「ほどける」
「ひとつの場所を離れて、別の広がりへ帰っていく」
そう置き換えてみると、
死は恐怖の黒い塊ではなくなり、
どこか遠くの光へと吸い込まれていく静かな動作のようにも感じられる。
ジブランはさらにこう続ける。
「呼吸の停止とは、休みなく打ち寄せていた呼吸の波から解放され、何ものにも邪魔されずに空へと昇り、神を探しにいくことではないのか?」
この一節に触れたとき、死は消滅ではなく拡大のようなものだと感じた。
肉体の制限がほどけ、魂が本来の広がりを取り戻していくイメージ。
宇宙の視点から見れば、ひとりの死は、体内で入れ替わる細胞のひとつが役目を終えていくようなもの。
淡々とした宇宙の営みの一部なのだろう。
けれど、その淡々さの奥には、全体へ還るという祝福が確かに流れている——
私は今でもそう思っている。
私たちが「死」と呼んでいるもの。
それは、肉体と、それに寄り添っていた自我が静かに幕を閉じるというだけのこと。
魂そのものは、もっと大きくやさしい場所へと戻っていく。
一方で、「苦しみについて」の章は、死の理解とは別の角度から、私の心を揺さぶった。
「あなたの苦しみの多くは、自ら選んだもの」
当時の私はこの言葉に抵抗を覚えつつも、どこかで真実の一端のような響きを感じていた。
ジブランは続けて言う。
「内なる医師が、あなたを癒すために差し出す苦い薬なのだ」
苦しみは罰ではない。
魂の奥にいる医師が、必要だからこそ差し出した処方。
それは時に、唇を焼くほど痛い。
けれど、その杯は「聖なる涙で湿らせてつくられた器」なのだと、ジブランは語る。
この比喩を、私は歳を重ねるごとに深く理解するようになった。
——苦しみが訪れるとき、そこには必ず変容の入口がある。
そう思えるようになったのは、喪失の中を長く歩いてきたからかもしれない。
夫を失った後の私は、まるで重い荷物を抱えながら薄暗い道を歩くような年月を過ごした。
けれど今は、心を少しずつ身軽にしていくとはどういうことかが、以前よりよくわかる。
身体が大地に還るその日まで、私たちはこの泥沼のような世界の中で、どれほど美しい蓮を咲かせられるかを試されているのだと思う。
それが生きるということの、本質なのかもしれない。
世界中の言葉に翻訳され、
「聖書の次に読まれている本」とまで言われる理由が、
年を重ねるほどよくわかる。
人生のある地点まで来たとき、ふいにこの本は扉を開く。
何度読んでも、その扉の向こうに広がる風景が変わりつづける。
2025年の今、
私はまたこの本に立ち返っている。
あの頃と同じ言葉を読みながら、
まったく違う場所で受け取っている自分がいる。
死への理解は深まり、
苦しみの意味は変わり、
生きることの輪郭が、以前よりも静かに美しく見える。
ジブランの言葉は、不思議なほど時間と共に息を変える。
きっと私たちの内側が、
その都度ちがう聞き方をするからなのだろう。
そして私は思う。
——死と生のあいだを歩くこの人生で、
私たちは何度でも、自分なりの蓮を咲かせ直すことができるのだと。
『預言者』は、そのたびにそっと灯りをともしてくれる。
その光があるかぎり、私はこれからの道も、
静かに、しなやかに、歩いていける気がしている。




