明け方の夢の中で、誰かが私に言った。
「祈りは沈黙」
その言葉だけが、まるで短い鐘の音みたいに残って、私は目を覚ました。
外では、まだ早すぎる鳥の声がしていた。夢の最後の余韻と鳥の声が重なって、現実と夢の境目が一瞬、分からなくなる。そんな目覚めだった。
眠りは「我」が引っ込む時間
眠っているあいだは、日中ずっと意識を占領している「我」やエゴが、奥に引いていく。
だからこそ、感覚が少し自然に近づき、研ぎ澄まされることがある。
もちろん、疲れた脳が勝手に作るドラマみたいな夢が大半だ。
でも、ときどき、目覚めたあとも胸の奥に残りつづける言葉を含んだ夢がある。あの朝の私は、まさにそれを受け取ったのだと思う。
見知らぬ女性と、小道を歩く
夢の中で私は、見覚えのない女性と並んで歩いていた。
美しい自然の中の、小さな小道。会話の内容は何も覚えていないのに、最後の一言だけが、あまりにも鮮明だった。
女性は前を向いたまま、歩きながら言った。
「祈りは沈黙……」
そして、そのまま夢が終わり、私は目を覚ました。
言葉が耳の中で反響して、しばらく消えなかった。
祈っていた。でも、心の中は騒がしかった
その頃の私は、かなりひどく体調を崩していた。
原因不明の不調が続き、検査も受けた。食欲は落ち、体重も減り、不眠と寝汗、微熱と咳。今思い出しても、身体の感覚が暗い色を帯びる。
同時に、息子たちの巣立ちという大きな転換期の真っただ中でもあった。
体調不良と空の巣の寂しさが重なって、精神的にもかなりのストレスだったんだと思う。
だから私は、毎日のように祈っていた。
膝をついて祈る、というより、日常の動作をしながらずっと祈っていた。
マントラを唱えるみたいに、アファメーションを繰り返すみたいに、ただ「早くこの状況から抜け出したい」と必死だった。
でも、今なら分かる。
あれは祈りであると同時に、心の中の騒音でもあった。
「可哀想な私」の罠と、エゴの声
心の中は、自己憐憫の罠にすっかり絡め取られていた。
エゴは元気いっぱいで、「可哀想な私」を盛大に演出する。しかも、妙に優しい声で。
「可哀想だね」
「ひどいよね」
「なんで私ばっかり」
……そういう声が、どんどん内側を埋め尽くしていく。
私は自分がその状態だということに、気づいてはいた。
時々、観察者の目で眺めてもいた。
でも、止められなかった。止める体力も残っていなかった。
祈っているつもりで、実際は不平不満の絶賛実況中継をしていたのだと思う。
祈りを放つには、聞ける静けさが要る
だからこそ、あの夢の一言は刺さった。
祈りは沈黙。
祈りを宇宙に放つには、まずこちら側に聞ける静けさが要る。
心が騒いだままでは、祈りは騒音に紛れてしまう。
純度を保てない。自分の内なる声だって、その騒ぎの中では聞こえない。
たぶん私は、起きているあいだは受信できなかった。
だから、エゴが一時的に静かになる睡眠の隙間で、何か大きなもの――真我と呼んでもいいし、もっと単純に「本来の私」と呼んでもいい――なんならスピリチュアルな人なら「ハイアーセルフから」だというだろう、とにかく、そういうところからのメッセージを受け取ったのだと思う。
それで、瞑想に戻った
その夢のおかげで、自分の混乱を振り返る小さな余白が生まれた。
そして私は、体調を崩して以来しばらく遠ざかっていた瞑想を、また始めた。
状況が劇的に変わったわけではない。
マインドの暴走も、相変わらずだ。(ここは本当に変わらない。笑)
でも、内側に沈黙の場所を持てるかどうかで、世界の手触りが変わる。
短時間でもそこへ戻ると、私は本質に立ち返れる。
その沈黙は、とても小さなスペースかもしれない。
けれど、そこは不思議と、すべての源につながっている。
沈黙は、何もないのではなく、満ちている
沈黙は、音の欠如ではない。
むしろ、力に満ちた空間だ。変化と振動の変換が起きる場所、と言ってもいいのかもしれない。
「音の対極に位置する沈黙は、音と同じくらい大切だ。沈黙とは、変化と振動の変換が起きる場なのだ。」
― ジョナサン・ゴールドマン『奇跡を引き寄せる音のパワー』
「だれにでも、沈黙し、黙想する時間が必要です。私はいつも沈黙のなかで祈りをはじめます。神は静寂の友です。」
― マザー・テレサ
あの明け方の夢の声は、いまも時々、私の中で鳴る。
「祈りは沈黙」
そして私は、今日もまた
祈りを言葉にする前に、まず沈黙へ戻る。


