比丘との対話 —「離れて観る」という智慧

瞑想
O先生の後ろ姿

チェンマイの田舎で出家していらっしゃるO先生と私の対話の記録です。先生の言葉はできる限りおっしゃった言葉のまま記録しています。わかりにくい言葉には脚注で、少しだけ補足を入れています。

― 逃げずに「離れる」という救い ―

片道2時間近くかけて、上座部仏教の比丘(僧侶)である日本人の O先生が籠る田舎のお寺へ行った。
静かに修行が続いている場所なので、本当は気軽に押しかける場所ではないのだが、瞑想ツアーでもお世話になった大切な方。先日、長い時間、私の話を聞いてくださった。

私は正直に今の自分の状態を、泣きそうになりながら延々と伝えてみた。

YUKA
YUKA

なんとか気晴らしをしようとしていますが、否定的なことばかり考えてしまって、頭も感情もカオス状態。負のスパイラルに陥りがちなんです。

気晴らしすれば一時的に楽にはなる。
でもまたすぐ戻ってしまう…。そんな心の疲れを、O先生はまずは静かに受け止めてくださった。

そのカオスは、究極的には「あなたのもの」ではない

O先生は言った。

旅行に行くとか友達とおしゃべりするとか美味しいもの食べるとか、その時は一時的にカオスもおさまるでしょう。
でもすぐ戻ってしまうでしょう?
だったら自分のカオスを、他人のカオスを見るように眺めてごらん。
少し離れると、もっと楽に扱えるようになるかもしれない。

そしてさらに続ける。

究極的には、そのカオスはあなたのものじゃない1
物事は蜘蛛の巣のように、タペストリーのように、いろいろな要因が絡み合って生まれている。
つまりみんなで共有しているものでもあるんだよ。


勇気をもって見つめるしかない

Yuka
Yuka

私は今自分の闇を、文章に書き出してみているのですが。できるだけポジティブに繋げる努力をしつつ笑

と話すと
すると先生は、笑顔でこうおっしゃった。

それはいいね、内観になるから。
あなたはいつも勇気があるね。
前から思ってたけど、あなたは困難に正面から立ち向かって戦ってる人だね。
大変なんだろうなと思う体験をしているのに、いつも笑顔で関心している。
あなたはちゃんと自分を知っているから、絶対に大丈夫だから。

私は思わず本音がポロリ・・・

Yuka
Yuka

いや〜〜ただ平和に静かに暮らしたいんですが・・・ (^^;

先生は笑って、

いやそれもあなたの魅力だからいいんです笑 
でも笑顔になれないどうしようもないカオスがあるなら、そのカオスを勇気をもって見つめるしかないのです。
逃げられないからね。
誰も救ってくれないから、とても辛いのはわかります。

と言った。

そして、テーブルを挟んで座る私を指しながら、

今、私とあなたは少し距離を取って座っているよね?
物事に対してもこうして離れて観てごらん。

私たち比丘は、世間や社会から離れて暮らしているから、あまりブレる要因がない。
それでも時々感情的になったり迷いが出たりすることはあります。
普通に生きていれば避けられないことです。
でもあなたの苦しみのようなことは、私たち比丘はもう離れすぎていて、理解できないことなのかもしれない。
でもね、人間は生きている限り苦しみがあるから、それとどう向き合っていき、苦しみに支配されない生き方をするかということです。


出離 ―「逃げる」ことではなく「離れて観る」こと

Yuka
Yuka

人は生きていれば苦しみがある、その苦しみから解放される道筋になるのが、
四聖諦2とか、四諦八正道3というやつですね?

それが一番ポピュラーな解決法だね。
苦をどういうふうにみるか考えてごらん。4
(苦(苦しみ)そのものをどう捉えるか?が仏教の修行の出発点)
四諦については知っているんだね。

そしてこう続けられた。

「出離」5って言葉を知ってる?
究極的な出離は出家。
でも普通の人にとっての出離という状態は、色々なことから逃げるということではなく、文字通り、出て離れて見るということ。
そしてそれも徳を積む6行為の一種です。
自分自身や精神を豊かにしていく方法の一つなのです。
仏も出離と慈悲から始まってます。
私は出家して、出離に人生全てをかけてしまいました。
出家しなくても、出離の状態を自分でやってみることはできるわけです。

そして優しく続けられた。

あなたも一人になって離れてみることはできるよね。
自分の色々な嫌なこととか過去のこととか、囚われていることとか、離れて内観してみる。
日常から離れてみる。
好きなだけここにいていいから、瞑想にきなさい。
それも実践としての出離とも言えるでしょう。

あなたのカオスな状態に関しても、間を置くこと、離れることが必要かと思います。
時間はかかるかもしれないけど、それが一番いい方法だと思います。
将来の夢や計画を失ったことは、そう簡単には捨てられないような強い思い(執着)が残っているんですよね。
それをずっと大切に温めてきて、それが生きる原動力になっていたんだろうね。
でももうそれは捨てるしかないよ。


ヴィパッサナーと一瞬のサマディ

私は、こう聞いてみた。

Yuka
Yuka

その出離を、在家のまま日常でするにはどうすればいいですか?

ヴィパッサナー7で心を止めてみることですね。
一瞬一瞬の心の状態に気づくことがサマディ8(三昧:自我意識が消えた状態)を形成します。
一瞬の、本当に瞬間的なサマディであったとしても、それを積み重ねていきます。
特に瞑想の時間として、長く座らなくてもいい。
日常生活の中、人とおしゃべりをしているときにもヴィパッサナーはできるからね。

そして、こんな美しい比喩をくださった。

一瞬のサマディはただの一つの点かもしれないが、それが増えてくると、点同士が繋がり線となり9、日常の中でサマディの状態が多くなってくる。
それができている人は、困難の中にも落ち着きを保ち、自分の心の中の執着や苦しみから解放されることができるものです。

サマディの目的は、なにか特別な神秘体験をするためではないので、サマディの体験を求めてしまうと、それは執着になってしまって本末転倒。

ヴィパッサナは鎮まっている心も「今鎮まっている」と認識するのだが、それを自分が見てしまうと自我が出てしまうので、意識から自分を離してあたかも他者が観察しているかのような傍観者になって10心を見ることができるとよい。
「ああ静かだなあ」って思ったらそれは自我であり雑念。

分別知11(事象や物事をありのままにそのまま正しく理解する)が機能しているのがサマディ。
これができるようになると、ただ気持ちが楽になるだけではなくて、問題解決の仕方が上手になります。


サマディは特別な神秘体験を得るためのものではなく、苦しみに支配されない生き方のための地道な実践。

それを静かな声で、しかし揺るぎない確信と優しさを持って語る O先生の言葉は、私の胸の奥に、じんわりと沁み込んでいった。


そして今

私のカオスは、まだ完全には消えていない。
でも──

「これは私だけのものではない」
「私はただ、少し距離を置いて眺めればいい」

そう思えるだけで、胸の奥の息苦しさが、ほんの少しだけ軽くなったと感じる。

また、あの静かな寺へ戻って、「点」のような静けさをいくつか拾い集めてみたいと思っている。

脚注

  1. カオスはあなたのものではない
    先生が伝えたかったのは、「これはあなた個人の欠陥や失敗ではなく、多くの条件が重なって生じている現象だ」という視点です。仏教では、苦も縁起によって生じるものと理解し、この見方が執着をゆるめる助けになるとされています。 ↩︎
  2. 四聖諦
    苦しみをどう理解し、どう自由へ向かうかを示す仏教の基本教理。
    苦諦(苦がある)・集諦(原因がある)・滅諦(静まる可能性がある)・道諦(そこへ向かう実践の道がある)の4つから成る。 ↩︎
  3. 四諦八正道
    苦しみをどう理解し、どう自由へ近づくかを示す仏教の基本教え。四聖諦(苦の理解)と、その理解を生き方として実践するための八正道(正しい理解・意図・言葉・行い・生活・努力・気づき・集中)から成る。 ↩︎
  4. 苦をどういうふうにみるか考えてごらん
    ここで先生の言う「苦を見る」とは、苦しみを敵として拒絶するのではなく、いま起きている現象として観察し、理解する姿勢を持つことを指します。四聖諦では、苦を単に消す対象ではなく、「見つめることで自由に近づく対象」とされています。 ↩︎
  5. 出離
    「出離」とは、現実から逃げることではなく、苦や執着から少し距離を置き、心が飲み込まれない位置に立って物事を見る智慧を指します。仏教では出家がその究極形ですが、在家でも心の出離は実践可能とされています。 ↩︎
  6. 徳を積む
    「徳を積む」とは、誰かに評価されるための善行ではなく、心を健やかにし、慈悲や智慧の土台を育てる行いを意味します。出離も慈悲も、心を豊かにし、善い因を育てる実践と考えられています。 ↩︎
  7. ヴィパッサナー
    いま心と体に起きていることを評価せず、ありのままに観察する瞑想法です。現代で広まっている「マインドフルネス瞑想」の源流の実践で、感情や思考を押さえ込むのではなく、それらが生まれては消えていく様子を静かに見つめることで、苦しみに振り回されにくい心を育てると説かれています。 ↩︎
  8. サマディ(三昧)
    ここでの「三昧」とは、特別な神秘体験ではなく、心が散らずに落ち着き、静かに澄んでいる状態のことです。仏教では悟りそのものではなく、その基盤となる安定した心の力として重視されます。 ↩︎
  9. 点が線になるサマディ
    これは、短い心の静けさが少しずつ積み重なることで、やがて日常全体の心の質を変えていく、という意味の比喩です。仏教修行では、一度の劇的体験よりも小さな気づきの継続が大切とされています。 ↩︎
  10. 自我を離して傍観者のように見る
    自分の感情や思考を「私そのもの」と同一化せず、「いま心に起きている出来事」として観察することを意味します。これはヴィパッサナー瞑想の基本であり、無我の理解にもつながる重要な視点です。 ↩︎
  11. 分別知
    ここでの「分別知」とは、頭の理屈や評価ではなく、起きている事実を歪めず、そのまま理解する智慧の働きを指します。サマディと結びつくことで、心が苦しみに振り回されなくなると説かれます。 ↩︎
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