いま、私が帰省している東京の空は、抜けるように青い。 窓を開ければ、どこまでも澄み渡り、微かな花の香りをのせて流れる清らかな風(花粉もw)が部屋に流れ込んでくる。けれど、私の心はどこか落ち着かない。チェンマイから届くメッセージには、視界を遮るほどの灰色の霧と、喉を焼くような焦げ臭い空気の報告が溢れているからだ。
「今年もまた、焼き畑のせいで最悪の状態だ」
「どうして彼らは、自分たちの環境を自分たちで汚し続けるのだろう」
そんな風に、どこか遠い国の民度の問題として片付けてしまいそうになる自分に、ふとブレーキをかける。果たして、あの空を灰色のベールで覆っているのは、本当にあちら側の人々だけなのだろうか。
チェンマイを囲む山々が燃える背景には、広大なとうもろこし畑がある。 それは、私たちが普段口にする食用のとうもろこしではない。家畜の餌となるデントコーンだ。そしてこの巨大なサプライチェーンの頂点に君臨するのが、タイの強大企業であるCPグループだ。
彼らが生産する安価な飼料で育った鶏たちは、肉や加工食品となって、ここ日本の身近な場所に溢れている。
たとえば、私たちが小腹を満たすために買い求めるファミチキやななチキ。これらの「安くて美味しい」を実現するために、海を越えた山岳地帯では、最もコストのかからない方法「焼き払う」という手段で、畑に残された大量のくずが一気に処分されている。
さらに今、中東情勢の影響で原油価格が上がり、トウモロコシは燃料としての需要も急増。遠い国の争いが、まわりまわってチェンマイの山を焼き、私たちの吸う空気を汚すのでは?世界は、思っている以上に残酷に、密接に繋がっている。
煙に国境はない。 けれど、私たちの欲望にもまた、国境はないのだ。
「あちらの人たちが燃やしている」という言葉の裏側で、実は私たちは「安価な食べ物の幸せ」という恩恵を、その煙と引き換えに受け取っている。私たちが豊かさや便利さを享受すればするほど、遠く離れた場所で誰かの空が灰色に染まっていく。この負の連鎖の片棒を担いでいるのは、他ならぬ、東京の青空の下で穏やかに過ごしている私自身でもある。
ブログのタイトルにしている『光と影の境界線』。
光が当たっている場所の影は、必ずどこか別の場所に落ちる。 チェンマイを覆うあの酷い煙は、私たちが消費という名の光を浴びた結果、生み出された影そのものなのではないか。
民度が低い!と切り捨てるのは簡単だ。 けれど、その境界線を一度取り払ってみれば、私たちは同じ一つの循環の中に生きていることに気づく。
空気が悪いと嘆く前に、まずは自分の皿の上が、どこから、どのような景色を経て届いたのかを想像してみること。その想像力の欠如こそが、実は一番の汚染なのかもしれない。
次にチェンマイの地を踏むときには、もう恵みの雨が降り始め、空気は洗い流されているだろう。
けれど、あの煙霧の中の赤い太陽の残像を忘れてはいけないと思う。この美しい東京の青空が、誰かの犠牲の上に成り立っていないことを願いながら、今、私はこの繋がっている痛みを言葉に留めておきたいと思う。


