2025年の年末から2026年始にかけて、東京から妹と姪が遊びにきていて、タイ人の友人にお願いして、モン族の村へ案内してもらった。
モン族の村へ来るたびに、必ず目に入るものがある。
木の棒を重ね、裂けた布や枯れた葉がからまった、不思議な形の飾り。
これが「魔除け」だということは、もうずっと前から知っていた。
村の人たちが精霊と共に暮らし、その見えない世界を守るものとして受け継いできた印であることも、何度か耳にしていた。
でも、知っているつもりだっただけで、
私はその前に立ち止まり、心で見るとか、共鳴してみるということをしていなかったのだと思う。
こうした魔除けや護りの印は、モン族だけのものではない。
周辺のカレン族をはじめ、他の山岳民族の村でも、形こそ違えど、精霊や見えない存在への敬意と共に暮らしてきた証として、家や村の入口に守りのしるしを掲げる習慣が残っている。
この土地の人々にとって、見えない世界は迷信ではなく、共存する現実なのだ。
この日、風に揺れるそれを見上げたとき、
ただの民俗資料としてではなく、
ただ「魔除け」というラベルを貼った対象としてでもなく、
ひとつの祈りの形として、私の認識の中に入ってきた気がした。
この村では、見えないものは軽んじられない。
風にも森にも、音のない気配にも名前があり、
その存在を前提に人は暮らしている。
だから守るという行為も、儀式ではなく日常の一部なのだろうと思う。
魔除けは、恐れの象徴ではなく、それはむしろ、
「守りたい命がここにある」
「失いたくない温もりがここにある」
という、静かな愛の証なのではないだろうか。
それにしても、その魔除けは決して新しくはない。
布は裂け、葉は枯れ、長い時間その場を見守ってきた姿をしている。
それでも、人々は外さない。
勝手な解釈かもしれないが、役に立つかどうかではなく、きっと信じ続けること自体が大切だからなのでは?とふと思った。
そしてその姿が、なぜか私自身と重なった。
人生のなかで、色褪せながらも、
もうボロボロになりながらも、それでも手放さなかったもの。
信じたいから信じ続けてきた、内側の小さな灯り。
頼りなく見える瞬間があっても、それでも風の中で揺れ続けている。
現代を生きる私たちは、
証明できるものばかりを信じるようにと言われ、
合理性の名のもとに目に見えない世界を切り落としてきた。
でも、安心は本当に増えただろうか。
見えないけれど確かに感じるものってあるよね。
胸の奥で静かに光る感覚や、
理由なく守られていると感じる瞬間とか・・・。
そのすべてを「迷信」と片づけてしまうには、あまりにも豊かで温かい。
風が吹き、魔除けがかすかに揺れると、
それはまるで、目に見えない世界からのメッセージのように感じられる。
「見えないものを、完全に手放さなくていい」
「信じるという行為は、それだけで力になる」
私はこの魔除けの意味を、きっと昔から細胞のレベルで知っていた。
でもあの日、ようやく感じることができたのだと思う。
小さな日帰り旅行だったものの、
その旅は外の風景だけではなく、
心の中の見えない風景にも続いていく感覚があった。
あの魔除けのように、少し傷つきながらも、まだ揺れ続ける祈りとともに。


ヤナーチェク〜 『草陰の小径にて』第1集「フリーデクの聖母マリア」
音楽:Janáček – On an Overgrown Path I-3 “The Madonna of Frydek”
見えないものを信じるというより、見えないものと折り合いをつけながら生きる。
その姿勢に近い静けさが、この曲にはある。
強く主張しないのに、背中側を支えてくれるような響き。
モン族の魔除けもまた、恐れを増幅させるためではなく、日々の呼吸を守るための知恵なのだと思う。



