窓の向こうには、肝臓で読む叡智という別世界があった

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窓の向こうには、肝臓で読む叡智という別世界があった|リス族の肝占いと精霊信仰

チェンマイはチェンダオの北、ウィエンヘーンのリス族の村での体験、今回はお葬式で供された黒豚の話題を。

前の投稿(命を食べるという現実について)でも触れたように、今回の旅で訪問したリス族の村では、ちょうどお葬式が行われており、2頭の黒豚が供される場面があった。
私はとてもとても正面から見られなかった。 村の山間で響いてきた豚の叫び声、その後、煙が立ちのぼり、湿った土に混じる焦げた毛の匂い、脂の匂い・・・ ほんの一瞬目にしただけで、何か大切な境界に触れてしまったような感覚があった。

数日後、「精霊のベンチ」について教えてくれたタイ人の友人が、もう一つ教えてくれた。

「リス族のシャーマンは、豚の肝臓で占いをするんだよ。」

そのひと言で、あの日の光景が別の層を持ちはじめた。 私はその「肝占い」の儀式を見たわけではないし、どちらかというと、旅人の私が踏み込んではいけない種類の奥の間の扉を見てしまったかのようにも感じている。 ただ、友人の説明を聞いて、供えられた黒豚の命が、単なる死者への弔いの晩餐の準備ではなく、村の未来を読むための媒介もあったことを理解した。

これについてさらに調べてみたら、リス族だけのものはなく、内臓に霊性を読み取る文化は世界中にあった。 メソポタミアやローマは肝臓に神意を求め、アステカは心臓を宇宙の燃料と考えた。他にも世界各国でいろいろな例があった。世界中どこへ行っても、みんな結局「見えない何か」に相談している。
それが星だったり、夢だったり、肝臓だったりするだけで(笑) 命の中心は文明によって異なるものなんだよね。それを知るだけでも、世界の多様性を感じるよね。

リス族の肝占いは、血の走り方、温度、形のわずかな差に精霊のメッセージを読み取るものだとか。ナ・モー(シャーマン)はその痕跡を頼りに、村の未来の方向や儀礼の意味を調整するだそうだ。 それはもはや占いというより、内臓という見えない世界への窓を開いて、精霊と人の通路を確かめる行為なのではないか。

もちろん、私が肝臓を見ても「レバーの下処理大変なのよね」とか「今日の煮込みは美味しくできそうですね?」くらいの発想しかできない。どう頑張っても、読むより食べるほうが向いている。 世界にはやはり、読める人と読めない人がいるわけだ(笑)

私はあの日、リス族のお葬式という、命が静かに別の形へ移っていく時間に、ほんの端っこだけ立ち会った旅人にすぎない。けれど、そのわずかな光景の奥にどれほど深い文化の息吹が流れていたのかを、今になってようやく感じている。

見えない世界へのアプローチは、驚くほど多様だ。人はいつだって、自分の手では触れられない世界の声をなんとか受け取ろうとしてきたのだ。 私はそのひとつの扉の前を通り過ぎただけ。でも、あちこちにそんな多様な扉があるのだと気づくだけで、旅は驚くほど深まるのだと思う。

さて今回の旅の記録も、そろそろこれでシメようかな。 でも、これで終わりではなく、窓の向こうをのぞいたら、その先にはいつでも開けられる小さな扉がある。 その扉は、またいつかノックしてみようと思う。 スピンオフでいくらでも出てきそうだよ(^^)
下にこの旅に関わる記事をまとめたので、よかったら通して読んでみてください(^^)

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