今朝、未明のまどろみの中で、遠くからトラツグミの声が聞こえてきた。 ビブラートの一切ない、細く鋭い笛のような音。一点の濁りもなく、ただ真っ直ぐに闇を貫いていくその音色は、鳥の歌というよりは、誰かが遠くの森で銀の管を吹き鳴らしているかのようだ。 夢の続きなのか、現実の音なのか。意識が浮上しきらないその淵で、けれど耳の奥は、はっきりとその声を「知っている」。
それは、メーリムの田舎で家族と暮らしていた頃、幾度となく聞いた声だ。 まだ何も始まっていない未明の冷気、家の中に残る家族の寝息、青白く沈む田園の村の輪郭。 あの声は、そうした光景のすべてと溶け合い、記憶の底に沈殿している。
あの頃の私は、たしかに満たされていた。 けれど不思議なことに、その幸せのただ中にあっても、いつかこの時間が遠い過去になることを予感していた気がする。 それは「失う恐怖」というより、目の前の光があまりに透き通っているときに生まれる、薄い震えのような感覚というのかな。 理由のない切なさが、あの声が響く未明の空気とともに胸をかすめては消えていった。
音は一瞬で空気に溶けてしまうはずなのに、ある種の音だけは、光の粒子のように心に留まるんだよね。 景色や写真よりも鮮やかに、長く、静かな熱みたいな温度を持って。
いま、私はチェンマイ市内に住んでいる。 かつての静寂(しじま)はないけれど、山に近いこの場所で、先ほど久しぶりにあの声が聞こえてきた。 そのたびに、時間の層が一枚めくれるような感覚になる。あの家の空気が戻ってくる感じがして。
乾季真っ只中の今、別の鳥が未明から力強く鳴きはじめる。 オニカッコウだ。 その声は、過去への扉ではなく、いまを生きている現在そのものの音。 容赦なく日常に刻み込まれ、気づけば人生の背景音となっている、生命の重なりみたいなもの。
もし人生の終わりに、記憶の断片が駆け抜ける瞬間があるのなら、きっとこの二つの声は並んで響くのだろう。 ひとつは、二度とは戻らない尊い時間の気配として。 もうひとつは、この土地に根を下ろして生きた、確かな証として。
音は形を持たない。けれど、ときに人生の輪郭を描き出す。 未明に響くあの声は、いまも私の中で、消えることのない光を放っている。
Luke Howard: August
このエッセイを書き終えたとき、私の耳の奥で鳴り続けていたのは、ルーク・ハワードの『August』という曲。
トラツグミのあの声――ビブラートの一切ない、銀の管を吹き鳴らしたような真っ直ぐな高音。その揺らぎのない響きを音楽に写し取るなら、この曲がピッタリなのではないかと。
ピアノの静かな打鍵の背後で、針のように細く、けれど確かな存在感を持って伸びていく残響。それは、未明の静寂の中にだけ現れる「人生の輪郭」そのものの音のよう。
南半球の冬の終わりを描いたこの曲が持つ、冷たくも澄み切った空気感。それがチェンマイの乾季の夜明けと重なり、私を再び、あのメーリムの古い木の家へと連れ戻してくれる感じがする。
もしよければ、この旋律とともに、未明の声を想像してみて。



