命を食べるという現実について

旅と思索
命を食べるという現実について|リス族の村で出会った黒豚と祈り

チェンダオの山の北側、ウィエンヘーン(Wiang Haeng)の旅で 胸に深く刻まれた光景がある。 それは、お葬式が行われていたリス族の村で出会った 2頭の黒豚のことだ。 私たちが訪れたとき ちょうど儀礼のために供されるところで、 豚の悲痛な叫び声が 山あいの静けさにこだましていた。 火で炙られていく姿を一瞬だけ見たけれど、 あまりにつらくて スマホのカメラを向けつつも 実際の姿を直視できなかった。

村の片隅の豚小屋では 数頭の子豚が木の柵から鼻だけ突き出して ブヒブヒ鳴いていた。 愛らしさと切なさが同時に押し寄せてきて、 「この子たちもいつか同じ運命を辿るのか」 と思うと胸がしめつけられた。

けれど、この土地では命を粗末にしない。 捧げられた命は祈りとともに家族の力となり、 村の循環の中で生き続けていく。

このとき私はアフリカでの体験を思い出した。 ある日、食堂で鶏料理を頼んだら、 庭を走りまわっていた鶏が捕まえられ、 一瞬にして首を落とされ、 そのまま調理され 私の食卓に運ばれてきた。 胸の奥に広がる罪悪感と、 「普段はスーパーで鶏肉を買っているのに、これは辛い?」 という矛盾。 でも、これこそが現実なのだと 思い知らされた瞬間だった。

それから、知り合いがマサイの女性と結婚したとき、 祝福の儀式のためにヤギが一頭連れてこられ、 その場で首を刺され、 あっという間にバーベキューとして皆の前へ。 喜びの祝いの中に 確かに命の痛みが共存していて、 その感覚は今も忘れられない。

リス族の黒豚も ケニアの食堂の鶏も マサイのヤギも、 私たちが普段見えないところで引き受けている現実を 静かに、でも確かに示してくれた。

チェンダオでの夜、キャンプの男の子が言った。
「今日は特別なんだ」と。
黒豚の肉を、塩だけで焼いてくれた。 脂身だらけで 普段の私なら絶対に食べられないような部位なのに、 一口食べた瞬間、その美味しさに驚いた。 香ばしくて、甘くて、脂がすっと消えていく。

そして「命をいただいている」という感覚だけが残った。

あの断末魔の叫び声も 子豚たちの可愛い鼻先も、 アフリカで見たあの光景も、 そして驚くほど美味しかった黒豚の脂も、 全部がひとつの物語として胸の中に重なっている。 命を食べるということは、綺麗ごとでは済まない。

でも、その痛みを知ったうえで食べる一口には、 確かに祈りが宿るのだと思う。

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